一万と一。 この数字の意味は、なんであろうか? 当然のことであるが、一万は一の一万倍である。 すなわち単純な差だけでも、一と一万の間には九千九百九十九の差があるということである。 この差は絶対的であり、絶望的であり、比べるべくもないどころか、比べるのすら馬鹿馬鹿しい差である。 差である、はずなのに。 今眼前に広がる光景はそれを覆している。 「………」 一人の女性騎士が、何人かの従者に守られながら戦場に足を踏み入れる。 死屍累々と重ねられた死体の山。その向こうに、一人の男が立っていた。 「……王自ら出陣とはな。もはや兵は尽きたか?」 不敵な様子でこちらに問いかけてくる男は、見るからに死臭が漂っている様子である。 だが、それでもこの男を殺せるとは、彼女は思えなかった。 「ええ。もはやこの場に連れてきていた兵は尽きました。後は、私自身とこの者達だけです」 彼女はそう言って、自分のそばにいる騎士達と自分自身を差し示す。 男はそれを睥睨し、満足そうに頷いた。 「なら、貴様らを倒せば終わりだな」 「今のあなたに、それが出来るとでも?」 彼女の言葉を聞き、男は突き立てていた剣を肩に担ぎ直す。 「たとえあなたといえど、それほど疲弊した状態で、私とこの者たちを相手に出来るなどとは思わないことです」 「試さずに何がわかる?」 忠告する彼女に、男はニヤリと笑ってみせる。 表情だけ見れば、まだまだ戦えそうである。 だが、周囲に飛び散っているおびただしい量の血液と、彼の身体中にできている傷を見れば素人でもわかるだろう。 今男が立っていること。それはすでに奇跡的なことなのだと。 「………一万の兵力を持っても、あなたの心を折ることは叶いませんか」 彼女はため息と共に、疲れた声を出す。 その声に、男は笑い声を上げた。 「一万! またずいぶんと犠牲にしたものだな、ええ? それとも、こうなってしまったのは計算外であったか?」 「………はい」 男の言葉に、彼女は苦渋の表情で頷いた。 一万。この数字は、彼女がこの場に連れてきた全兵力の数である。 これに相対した、男の兵力はわずか一。すなわち、男自身だ。 一万対一。 普通なら、誰もが絶望する兵力差だ。いや、絶望する前に諦めるかもしれない。 数の暴力などというレベルではない。普通は、ここまでする前に決着がつくものなのだ。 だが、目の前の男にはそれすら通用しなかった。 一万の兵力を押し返し、今もこうして立っているのがその証拠だ。 ………もちろん、今にも倒れそうな状態になっているわけであるが。 「ですが、一万。犠牲にするだけの価値はありました。何しろ、こうしてあなたと話をする機会が生まれたのです」 「二度と来ないであろうなぁ。貴重な機会よ」 彼女の言葉に、男は嘯いた。 そもそもこの男、敵と見れば即座に切り捨てる非道な男である。 今、的である彼女が男と話が出来ているのは、単に男が疲弊しきっているからだ。普段であれば、まず剣の一撃が見舞われる。 だからこその、貴重な機会。 「ならば、今ここで言ってしまいますね」 彼女は、この機会を逃すつもりはなかった。 「我が軍門に、下ってはいただけないでしょうか?」 「断る」 考えるそぶりすら見せず、男は彼女の誘いを蹴り飛ばす。 「………何故、お断りに?」 「何故? ハッ、その理由は貴様が一番よくわかっているのではないか?」 ほんの少し傷ついた表情を見せる彼女に、男は嘲るように剣を突きつける。 「敵を全て砕く俺と、敵すらも己の内に取り込もうとする貴様。まるでベクトルが逆だ、うまくいくわけがあるまい?」 「………」 「俺が俺である理由は、あくまで俺であるからだ。俺は貴様ではない」 謳う様な調子の男に対し、彼女の表情は影を落としていく。 「貴様の周りにいるのは、少しでも貴様に共感を覚えたものたちであろう? だが、俺は貴様に共感を覚えたことは一度もない。俺の中に、貴様はいない」 わかるような、わからないようなことを謳い、男はニヤリと彼女を見据える。 「それでも、取り込んで見せるか?」 「………可能であるならば」 「ならば、その果てにあるのは崩壊であろうな。合わぬ目釘で家を建てれば、自然とその家は壊れるであろう」 男はつまらなさそうに肩をすくめた。 彼女の建てる家に、自分という目釘は合わぬ。そう言っているのか。 「………」 彼女はぎゅっと拳を握る。 わかってはいた。だが、そうはっきりと告げられてしまうのは―――。 「どうしても……駄目なのですか………?」 はっきり言って、つらかった。 「確かにあなたの考えは私には、理解できません」 「………」 「ですが、理解は出来ずとも利用はさせてもらえます。私には、あなたを利用する価値すらないと仰るのですか?」 「なら一万人用意すればよかろう。それで俺と同価値だ」 はっきりと、道具として扱うという彼女の言葉に、男はそう返した。 道具として扱う。一見すると、まるで人道に合わぬ宣言であるが、素晴らしい道具は常に磨かれ、光沢を放つ。 つまりはそういうことだ。 「………………」 「何を黙りこくることがある? 貴様自身が今証明して見せたことだろう? 一万の軍勢と、我が価値は同等であると」 確かに。 一万の軍勢でも殺しきれないこの男は、単純に考えれば一万人分の実力を持つということ。 だが。 「ですが………」 この男は、あくまで一人。 「あなたは、一人だけでしょう―――?」 悲しそうな彼女の言葉に、男はハッと息を吐くように笑った。 「そうだ。だが、それがどうした? 命の価値など、今更問うのではあるまいな」 「問うのは命の価値ではありません。あなた自身の価値です」 「同じことであろう。命と個人は同義よ。どちらもたやすく切り捨てられる」 彼女はうつむき、そして顔を上げた。 「あなたは……何故、そこに立つのですか………?」 まるで意味の通らぬ問いかけ。 だが、男には正確に伝わったようだ。 「俺であるからよ。貴様がそこに立つように、俺も今ここに立つ」 笑ってそう告げる男の顔は、どこか優しげですらあった。 だがそれも一瞬のこと、すぐさま不敵な表情を取り戻す。 「―――で? いつまで問答を続ける気だ?」 「………できれば、いつまでも」 「ハッ、相変わらずだな。それで、一体何人の人間を諦めさせてきた?」 彼女の本心からの言葉に、男は呆れたような声を出す。 時間は、有限だ。それゆえに諦観と諦めを生む。 彼女は、心の片隅で男が折れてくれるのを期待していたのかも知れない。 だが、男自身がそれを許さない。 「いい加減、貴様と話すのも飽いた」 そうやって、陽光に己の剣をかざす。 鈍く光る剣は、彼女の目をわずかに眩ませる。 「故に、先に逝かせてもらうぞ?」 その一瞬の隙で、男は自分自身の心臓に剣を突き立てた。 「―――っ! 何を!」 「ぐ、ごぼっ。……く、なにを? 自分の命を、好きに扱い、何が悪い………?」 慌てる彼女に余裕を崩さぬまま、男はニヤリと笑う。 「は、はははは! 決してこの命、貴様になど預けてはやらぬ! くれてはやらん! 我が命、地の獄にまで、我が物で―――」 そして、高笑いを上げたまま絶命する男。 その体は、心臓に剣を突きたてたまま仰向けに倒れていった。 「………」 「王」 その身体を見つめて、わずかに身体を振るわせる彼女を、そばにいた従者の一人が気遣った。 「大丈夫………。私は、大丈夫です」 彼女は、従者の気遣いを優しく受け止め、そのまま男のそばにまで歩いていく。 「………」 男の顔は、どこかいびつに歪んでいたが、確かに笑っていた。 「どうしてあなたは、そこまで笑えるのですか………」 そんな男の顔を見て、彼女は一筋涙を流した。 「私は、こんなにも涙を流しているというのに………!」 雫は止まらぬままに、男の顔を濡らしていく。 従者達は、そんな自分の主を見つめて、何も言わずに立っていた。 というわけで、二、三年ほど前に部誌に載せた「ある話」というタイトルの小説です。こちらの方に掲載するに辺り、わずかな誤字の修正と行間の変更などをおこないました。 身内ネタで申し訳ないですが、この話を掲載した時、四年間の作品制作の中で最も高い作品評価をみんなからもらった作品でもあります。まあ、これ以外が露骨なファンタジーだったりしたのが悪かったんだと思いますが。 しかし部の仲間たちは知らない……。これの元ネタ、そしてプロットが魔法少女リリカルなのはの二次創作からの引用だと……! これを書いた時期が、リーベシリーズの第三段ナハト・シュベーツ執筆の時期だったのですが、一千年前の覇王と聖王の掛け合いがどうしても書きたかった自分は、それらの設定を一切ぼかす形で部誌に投稿してしまったのです……! 結果、書いた本人がビビる評価をみんなからもらい、ものっそい複雑な心境に陥ったのですが。そうか、俺のオリジナルはやはりつまらんのか……みたいな。 しかし久しぶりの作品掲載がこれか……。しかもクリスマスなのにこれか……。 それでは、この作品まで見ていただいた菩薩のような方に天下無敵の幸運があらんことをー。 |